仲 よ く

 

仲よくすることは、お互いに合掌しあうことであると申しました。お互いに合掌しあうことを、仏教では自利利他と申しておりますが、元来、自利と利他とは別々にはっきりと二つに分けることはできないもので、自利がそのまま利他であり、利他がそのまま自利であります。

 

小個我と全体我との関係は、不二であり一如であるというのが、仏教の見方です。不二とは二つの別のものではないという意味、一如とは一つの同じものではないという意味です。このことを自他不二とか、物我一如とか申しております。ですから、仏教では古くから自利と利他は車の両輪・鳥の双翼の如しと形容しております。 

 

この自他不二の精神に徹することを、お互いに合掌すると申したので、これがほんとうに仲のよい状態であるというのであります。 

 

お互いに人間同士でありながら、合掌し合うのかと思うと、何かてれくささを感じるかも知れません。てれくささだけなら宜しいが、若い方のなかには時代思想に逆行するものだと反感さえ覚える方がないでもありますまい。そこで脇道へそれる嫌いがありますが、誤解のないように、ここで三宝(triatna)のお話をさせていただきたいと存じます。 

 

三宝のうちの仏陀(覚者)と達磨(法)については、すでに触れるところがあったのですが、残されたのは僧伽(samghaです。僧伽というのは梵語で、和合衆と訳されております。

 

一般に僧伽の僧だけとって、坊さんのことだと思われていますが、そういう場合もありますが、南無帰依僧とは必ずしも僧職にある人に帰依するばかりではありません(そのわけはすぐ後で申します) 

 

勿論、時代によっては、或は階層によっては、坊さんに帰依すると解して悪いことではありませんが、そういう考え方は今日の若い知識層の方々には反感をおぼえさせて、かえって仏教を軽蔑させることになるかも知れません。この点について、正しい理解をもつためには、さらに三宝に三種あることを知っておかねばなりません。

 

三種の三宝とは、現前三宝、住持三宝、一体三宝の三つであります。現前三宝では、お釈迦様が仏宝、その説かれた教えが法宝、十大弟子をはじめ大勢のお弟子達が僧宝であるとされております。 

 

 次に住持三宝とは、木や金で造られた或は絵に画かれた仏像が仏宝、文字に現わされた経文が法宝、剃髪染衣の沙門が僧宝であるとされています。これが一般に知られている三宝です。 

 

 

 これだけ見て仏教は偶像崇拝であるの時代錯誤であるのと申すのは当たりません。なぜなら、ここに一体三宝があるからです。一体三宝とは、前々から申している仏性そのものを仏宝、真理そのものを法宝、そして今申した和合衆を僧宝とするからであります。ですから、ここで、僧宝とはお釈迦様在生当時のお弟子達でもなく、現在葬式を執行している坊さんでもなく、大勢の者が円融和合して真理を研鑽をやっている団体をいうのであります。つまり、帰依僧とは、各自の自由意志によって教団に参加するの謂いであります。こう申せば、若い人でも納得がいくでしょう。

 

ご参考までにわれわれ人間禅の三帰依文をあげてみるならば、

 

本覚の心性 是れわが仏陀なり

 

如是の活法 是れわが達磨なり

 

信和の教団 是れわが僧伽なり

 

 我れ今 仏陀に帰依し竟れり

 

我れ今 達磨に帰依し竟れり

 

我れ今 僧伽に帰依し竟れり

 

以上の三帰依文を、また言葉を換えて三誓願文として、われわれは常に唱え且つ実行を期してております。それは・・・

 

正念の工夫 断絶すること莫らんことを願う

 

如是の活法 軽忽すること莫らんことを願う

 

教団の使命 辜負すること莫らんことを願う

 

 以上の諷誦の内容を玩味していただけば、それはとりもなおさず自己の仏性に合掌し、不滅の真理に合掌し、お互いの仏性に合掌し合うことであるということがご理解願えると思います。

 

そして、これらをさらに要約すれば、正しく、楽しく、仲よくという標語にもなるわけです。

 

大分お話が脇道にそれたようですが、私の言わんとする合掌の精神をご理解願うには、かえって便利であったかも知れません。とにかく、教団に属する仲間同士ばかりではありません。謙虚な心持をもって他に向かって合掌するというのは、奴隷的な卑屈な根性とは全く別次元のものであります。お互いに等しく仏性をそなえているという平等の立場に立って、堂々と対等で合掌し合うのであります。

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お互いに人格を尊重し合うということは、今日の社会通念でありますが、その実績はなかなか挙がっておりません。 

 

それは人格尊重ということが単なる掛け声や理念だけのことで、実際にこの合掌の精神まで即ちお互いの仏性を尊重し合うという処まで・・・昂揚されていないからであると思います。本当に合掌し合えば、そこに尊敬と慈愛との心持が生じて、自から親和して仲良くできる筈であります。これを隣人から隣人へと次第に拡げてゆけば、ついには世界の恒久平和を将来得るというのが、われわれの主張で、世界楽土をこの地球上に建立しようというのが、われわれ人間禅の使命です。この目的を達成するために行う種々な手段を合掌運動と名づけております。が、この使命達成は前途甚だ遼遠であります。余り根本原理ばかりを述べたてて遠い将来のお話ばかりしていないで、一つ手近な具体的な問題をとり上げてみましょう。 

 

必ずとは申しませんが、世間ではとかく意見が衝突し感情が齟齬し利害が相反しやすく、喧嘩や反目や闘争の起こる場合が多いようです。それは生存競争場裡では止むえないことだとしてしまったのでは、人類の向上も社会の発展もあったものではありません。では、どうすればよいか?そこに倫理や法律の問題が起こってくるのでありますが、いまそれに触れることは、余りにも主題から逸脱してしまいますからやめて、ここでは、合掌の精神から、これら問題の解決の一助を提供したいとおもいます。

(8/16)

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 万人等しく仏性をそなえているということは、屡々申したことで、そしてそれは真理に違いありませんが、実は真理の一面を言っておるにすぎないのであります。真理には平等の面と同時に、差別の面があります。『般若心経』にもあるように、【色即是空 空即是色】が真理であります。ここに色とは差別をあらわし、空とは平等を意味しております。ですから、心経の語を言いかえれば、差別がそのまま平等であり平等がそのまま差別であるということになります。 

 

それだから平等の一面のみみて、仏性を平等にそなえているという面だけに傾倒して、お互い合掌するばかりでは、理論はそれでよいかも知れませんが、実際に差別の世界では処理しかねる問題が多々起こって来るのも無理からぬことであります。その差別という真理の一面に徹した上で、お互いにもつ特徴を活かしあい、合掌し合った方がより効果的の場合があります。 

 

たとえば、梅には梅の香りがあり、桜には桜の色があり、柳には柳の姿があります。それを柳は梅を見て、そのゴツゴツした姿が気に入らぬと言い、梅は桜を見てその匂いのないのをけなし、桜は柳の花のみすぼらしさを詰っていたのでは、いつまでたっても仲よくできる筈はありません。 

 

ここで一つ、己を空しゅうするという合掌精神に立ち返ってみれば、今まで自己の優越をほこり、他の賤劣を軽蔑していたのが、とたんに逆になって、柳は梅の香りをめで、梅は桜の色をたたえ、桜は柳の姿をほめるようになります。そして、忽(たちま)ちに、仲よくなごやかな世界を現出することができます。 

 

これは譬え話ですが、老若男女の場合でも、民族や思想の相違の場合でも同じこと、それぞれの立場になって見、それぞれの特徴に合掌し合えば、必ず仲よくできるとおもいます。 

 

世の中に完全な人なんて、一人だってあるものではありません。と同時に、欠点ばかりの人というのもありません。もし己を空しゅうしてつきあってみれば、だれでも必ずどこかに長所があるもので、学ぶ気にもなり尊敬する気にもなるものであります。また、たとえ欠点が目について仕方がない時でも、自分だって幾多の欠点があることを反省すれば、決して軽蔑する気などになれるものではありません。 

 

先に、観音が観音に合掌するという仏印和尚のお話を致しましたが、観音は自己に合掌するばかりでなく、又他に向かっても合掌してござるのです。それがほんとうの菩薩の姿であります。元来、菩薩とは菩提薩多摩訶薩多(bodhisattva=maha   sattva)を菩提摩訶薩と縮め、さらに菩薩と略称したので、その意味は、有情を覚らしむるところの大きな心の衆生ということです。つまり自利利他の素願を行ずる人を菩薩というのです。 

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(つづき)

かって、仏陀を単に覚者と訳しておきましたが、くわしくは自覚覚他覚行円満の人ということで、菩薩も仏陀も、畢竟は悲智円満の人のことです。先に例の三身仏のうち応身仏とは、世尊をはじめ番々出世の祖師方の如き人であると言いましたが、菩薩がこうしたものだとわかってみれば、応身仏とは又菩薩のことであると申しても差し支えありません。 

 

その菩薩が他に向かって合掌するありさまが、『観音経』のなかにも掲げてあります。いわゆる観音の三十三応身というのがそれで【応に仏身を以て得度すべき者には、観世音菩薩即ち仏身を現じて為に説法し】からはじまって、【応に執金剛神を以て得度すべき者には、即ち執金剛神を現じて為に説法す】まで、三十三通りの身を現じて為に説法するというのは、あらゆる階層の人々に対し、又あらゆる理念の人々に対して合掌して、仲よく自利利他の悲願を行ずるのをいったものであります。 

 

これは同調とか同情とか博愛とかいうよりも、もっと程度の高く深く広いもので、仏教でいうところの慈悲を物語っております。即ち全く己を空しゅうして相手の境涯になりきって合掌するのです。 

 

今あげた三十三応身のなかにも【応に童男童女身を現じて為に説法す】という一節があります。大人には大人の世界があり、子供には子供の世界があります。それを大人が大人の世界を固守して、「ばかばかしくて、子供なんかを相手にしてあそべるかい!」といってしまったのでは、大人と子供が仲よく遊ぶことはできません。ここは、大人の方が子供になって、つまり子供の身を現じて、「さあおいで、お相撲をとろう」と相手になってやるから、子供も一生懸命になって大人にかかってくるのです。 

 

しかもそれをいきなり投げてしまわないで、「おお強い強い」と方便をして相手になってやる、これを為に説法するというのです。説法とは、何も有難そうなお談義をするばかりではありません。子供のために、怪我のないように遊んでやるのもりっぱな説法です。 

 

世の中の母親は、そんなことを意識してやっているのではありませんが、いつも自分の子供に対してこの説法をやっています。これを母性愛とでも申しますか、結局は己を空しゅうしてかかっておるから、その時の親は観音の応身説法をやっているわけです。 

 

が、自分の子供に対しては、このように菩薩の権化となって合掌ができますのに、さて隣人に対して又見知らぬ人に対しては、なかなかそうは参りません。若し夫れ瓦ほんとうに菩薩なら、いろいろの階層の人々、いろいろの理念の社会、いろいろの人種の国家に対しても、この慈悲心を煥発(かんぱつ)することができるのであります。 

 

ほんとうに合掌の精神に徹氏て、お互いに合掌し合えば、喧嘩も反目も闘争も戦争も解消して、仲のよい人間社会、平和な世界楽土が、この地球上に建立せっられる筈であります。 

 

筈でありますといっても、それは一つの理想論であって、実際となると、物の面での裏付けもなければならず、社会・経済・政治・外交・文化の面でも、それぞれ専門的な指導原理と実際技術とが要求せられることは、論を待たないところであります。が、それにしても、この合掌の精神が根本の基礎となっていなければ、結局は砂上の楼閣のようなもので、ついには徒労に終わるのではなあいかと考えます。これについては、更に深く探究する必要があるのですが、限られた紙数もやがて尽きようとしていますから、それは他日に譲って、この辺でそろそろ結末をつけねばなりますまい。 

 

が、その前に一言、仲よくの項に関して付け加えておきたいことがあります。それは、こちらがいくら本気になって合掌しても、相手がどうしても合掌してくれない、合掌しないどころのさわぎでなく、反対に暴力を奮ってくる場合には、どうするかという問題です。 

 

いくら己を空しゅうするのが根本義であるからといって、理不尽に横暴をきわめるのを、そのままにしておくのが合掌の精神にかなうのでしょうか?縁なき衆生は度し難きとばかりに、超然たる態度をとるのは、個人としては或はそれでいいかも知れません、全体としてはどんなものでしょうか?つまり、暴力を黙認するかどうかの問題です。 

 

ここで暴力というのは、もちろん腕力ばかりではありません。権力でも金力でも、ないし多数の力でも、すべて非合法・不合理な力を総称して暴力と申します。 

 

先に優勝劣敗はやむを得ないとしてしまったのでは、人間界の進歩向上はのぞめないというような意味のことを申して、だから合掌しあうべきであると説いてきたのでありますが、いまやこちらがいくら合掌しても、相手がその気になってくれないという場合、これをどう処理したらよいかという問題です。

 

これはなかなか大きな問題、そして実際ありうる難問です。」普通一般には、こうした場合には、公正な制裁を加えよというのが良式になっています。では仏教では古来どんな処理法を説いて折るのでしょうか?仏教は己を空しうすることを前提としておりますが、これは暴力に対する無抵抗を意味しておりません。

 

ましていわんや、他に従属して唯々諾々と奴隷化するのを奨励しているわけではありません。各自の人格を尊重し合うということは、自己の自主性をも大いに主張しておるわけで、暴力に押えられた平和は表面的なもので、決して仲のよいほんとうの姿ではありません。

 

合掌の姿には、なごやかさもありますが、また狂瀾怒濤の大海をつきすすむ船の舳先の形も具えています。 

 

このことはすでに、正しくについて申した時に『勝鬘経(しょうまんぎょう)』を曳いて触れたことでありますが、破邪顕正のためには殺人刀・活人剣を振りかざして、ガーンと制裁を加えることもあるのです。が、それは申すまでもなく、最後の裁きというような意味のものでなく、合掌精神にのっとって、正しく・楽しく・仲よくあらんがための一時の方便にしぎないのである、とこう説いています。 

 

われもまた、われわれのいうところの合掌運動が功を奏して、真に世界の楽土が建設されるまでの過渡期において、制裁もまた止むう得ないとするものであります。 

 

単に宗教的なるが故に、己を空しうするのが第一義なるが故にという原則のとらわれて、いたずらな無抵抗主義や無節操な従属主義、あるいは無自覚な事莫れ主義は採らないところであります。が、これはあくまで現段階においては、という条件のもとのことであります。合掌の根本精神は、敵であろうと路傍の石であろうと、その仏性の尊厳に対して合掌するのである、という根底を忘れてはならないのであります。

             (最後の章「結びのことば」につづきます)

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