楽しく 

 

私は先に、楽しくあるとは、自己に合掌することであると申しました。真理に合掌するのだといえば、話はちとむずかしくとも、とにかく法に合掌するのだというのですから、わからないこともありますまい。しかし、自分が自分に合掌するのだと言われては、奇妙な感に打たれる人もあるかもしれません。が、これは自分の仏性に合掌するのだと言いなおせば、すぐご理解がいけるでしょう。 

 

先程も、その下準備として、一切衆生は皆悉く仏性を具えておるということを、縷々申しておいた次第であります。この点に関する限り、誰でもが天上天下唯我独尊であるということを想い起すならば、自己に対して合掌して少しもおかしくないはずです。 

 

 こういう話があります。中国の宋朝の時代に、蘇東坡(そとうば)という有名な詩人のあったことは、どなたでもご存知でしょう。が、この蘇東坡が禅の修行を深くやっていたということを知っておる人は、あまりいないようです。 

 

 この蘇東坡が、ある時、仏印禅師のお供をして郊外を歩いていたとき、日本でも田舎に行くとよくある図ですが、路の傍らに手に数珠をかけた観音様が合掌してござる石像が立っていました。数珠というものは、ご承知の通り、仏号を唱えたり菩薩を拝んだりする時に、手にするものです。 

 

そこで蘇東坡が不審を起して、仏印和尚に「観音と言えばすでに菩薩でござるに、みれば手に数珠をもって合掌しておられるが観音様は」一体何の名号を唱えるのでございますか?」と問うたら、和尚「ただ観音の御名を念ずるのみ」と答えられた。 

 

 これは大変に味のある言葉で、つまり観音は観音自身に合掌するのだということであります。他に求むるは自に求むるに如かず、という含みもあるでしょうが、観音が観音に合掌するとは面白い。一切衆生が仏性を具えておるという自覚がこれの根底をなしております。これで自分が自分に合掌するということの意味がおわかりでしょう。 

 

 とにかく自力門の合掌は、他力門のそれとは対象がちがいますが、やはり仏に帰依するという点では同じであります。話がいささか脇道へそれる嫌いがありますが、この点をもう少しはっきりさせて、無用の混乱を避けることに致しましょう。自力門の帰依仏と他力門の帰依仏とは、次のような相違があるのですが、それをお話しする前に、仏教で三身仏といって、仏に三種をたてていることから申すのが順序でしょう。 

 

 三身仏とは、法身仏と報身仏と応身仏(時には化身仏とも申します)の三種です。これは元来は唯一絶対のものではありますが、仮に体相用の三方面から眺めて、こう名づけたもので、三即一であることは申すまでもありません。 

 

さて、体から眺めてこれを法身仏といい、相から眺めてこれを報身仏といい、用からながめてこれを応身仏と申しております。で、真如の本体である本覚の心性即ち仏性に合掌するのが、今申した自力門の帰依仏でこれは法身仏に帰依合掌したのであります。これに対し、多年の修行の報酬として真如実相を証徳した悲智円満の如来に合掌するのが他力門の帰依仏で、これは報身仏に帰依合掌することになります。このように合掌の対象はちがいますが、今も申した通り法身仏も報身仏も、唯一絶対のもを仮に方面をかえて眺めただけのことでありますから、その根本に於いては同じであると申したわけであります。

 

ついでに、応身仏について一言しておきますならば、これは衆生の根機に応じて種々の身を現じて実際に教化している世尊をはじめ多くの祖師方をいうのであります。かの『観音経』にある三十三応身というのは、この消息をあらわしております。 

 

もう一つついでに申しておきますならば、禅門では報身仏のことは言いませんが、法身仏を理仏といい応身仏を事仏と申しております。最初 大死一番絶後に再蘇して見性成仏がいけたというのは、この理仏を悟ったということです。そして悟後の修行に骨折って、千鍛百錬して法爾自然の境涯に到りえたのを、事仏になったと申します。 

 

先に正しくについてお話したときに理事一致覚行円満の境涯をえるのが、禅の修行の目的であると申しましたが、それは理仏を悟り、さらに事仏になることをいったものです。これは禅宗の帰依仏で、この境涯に到りえてはじめて真に人生が楽しいと言い得ると申しております。そうでしょう。われわれが死んでからでなく、現世において、しかも生き身のままで、実際に仏になりうるというのですから、これ以上の楽しみはありません。 

 

誰だって自己を愛しない者はありません。先に己を空しうするということが、宗教の要素であると申しましたが、その己を空しうするということも、畢竟は自己を活かし自己を愛するがためであります。彼の殉教者がよろこんで犠牲になるということも、そういうやり方によって自己に対し十分に満足がいけるからであります。即ちその場合、そういう道をえらぶことが、たとえ第三者からは犠牲に見えるかもしれないが、その人にとっては真に自己を活かし、真に自己を愛する所以であったからであります。 

 

活かすとか愛するとかいうことは、何もその継続する期間の長短に依ることではありません。たとえ生を終わる瞬間であったにしても、真に満足して死ぬことができるなら、その人は自己を活かし自己を愛しえた人と申すべきでしょう。したならば、これ程人生に楽しいことはありますまい。 

(8/12)

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 禅の修行において大死一番することは、難行であり苦行であるかもしれません。他から見たら、物好きと思われるかもしれませんが、絶後に再蘇して真に自己を活かした時は、手の舞い足の踏むところを知らずというほどの法喜禅悦を感ずるものであります。まして己を空しうして悟後の修行に骨折り【われ法王となって法において自在なり】と言い得る程の事仏の境涯を得たならば、楽しみこれに過ぎるものがありましょうか? 

 

 孔子もそれをはっきり言っておられます、【朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり】と。このお言葉は、ただいたずらに生き長らえて、道ならぬ快楽をむさぼって酔生夢死するよりは、たとえ一日でもよい、大道に即した生活ができたら、即ち真理に合掌した正しい生活ができたならば満足であり、これが最大の幸福であるという意味かと存じます。ですから、又別の処で【楽しみもって憂いを忘れ、老いの将に到らんとすること知らず】とさえ、強くいっておられます。こういった幸福感・満足感こそ、ほんとうに楽しくある姿、自己に合掌した姿であるというべきでありましょう。 

 

 ところが、「お釈迦様のような覚者や、孔子様のような聖人なら、そうかも知れないが、われわれ如き凡夫が、オイソレとそう簡単に満足はいけない」と言われる方があるかもしれません。それは一応もっともな話です。ですから、先にも修養が必要であると申したのですが、収容の話は後廻しにして、そんな特別な考慮を払わないでも、老若男女・貴賤貧富・博学無学にかかわらずそのままで、現状に満足できるというのが、一般に宗教の徳とでも申すべきでしょう。 

 

前にお話ししたT老人なぞは、特別な修養したという話も聞きませんが、とにかく煙に巻かれて死ぬ間際も、おまかせしきって満足した貌をしていられるのは、信仰の徳とでも申すべきでありましょう。しかし、ここに注意を要することは、ややもすると消極的にあきらめて、現世に見切りをつけて、無為に日を過ごす弊害におちいりやすいことです。 

 

 われわれの現実の環境はおよそ理想の楽土からは遠いものです。健康にめぐまれない方もありましょうし不慮の災難にあう人も少なくありません。これに対する社会保障だって、決して満足なものとはいえません。

 

だからといって、苦の娑婆であるの、罪と汚れの世の中あるのと、現世に見切りをつけてしまって、ひたすら未来の天国や極楽ばかりにあこがれたのでは、この地球上に楽土を建設することはできません。それでは人類の進化も社会の向上もなく、人生はすこぶる味気ないものになってしまいます。それでは人生を愛する所以ではありますまい。 

 

そういう宗教もあったかもしれません、或はあってもよいかも知れません。が、少なくとも時代感覚に則した活き活きとした宗教というには、どうかと思われます。われわれは、あくまで現世をあきらめずに、政治・経済・社会・文化の面に関心をもち、これが向上発展に協力し努力せねばなりません。が、協力しても、なお且つ理想は実現しがたい現状において、あきらめもせず悲観もせずとしたならば、どうしたらよいのでありましょうか? 

 

現状に則して人生を意義あらしめ、この娑婆に生きながら悠々楽しくあるには、どうしたらよいでありましょうか?これに答えてわれわれは、自己に対して合掌せよと、主張するのであります。 

 

 元来、人々お互いは先天的に最尊最貴の仏性をそなえながら後天的の環境に支配され、名誉や地位や財産やその他有形無形の欲望や感情の奴隷になって苦しむなんて、こんな莫迦々々しい話はありません。それでは自己に対して余りにも不親切であります。

 

ほんとう自己が可愛いいならば、まず自分自身の主人公に合掌すべきではありませんか? 

 

 理仏を悟れば、この理だけはわかるのですが、実際にはなかなか万縁万境の主人公となって、如何なる順境であろうが、如何なる逆境であろうが「日々是れ好日」とばかりに、楽しい日送りにすることは困難です。困難ではあるが、自力門ではそういう力を得る修行をするわけです。つまり、あきらめや悲観でなく積極的に世界楽土の建設に努力するのです。 

 

  山岡鉄舟居士の歌でしたか《晴れてよし曇りてもよし富士の山 元の姿はかわらざりけり》というのがありますが、こういう境涯に悠々自適ができたら、ほんとうに楽しい人生と申すべきではありませんか? 

 

 先にも申しましたが、お釈迦様が【われ法王となって法において自在なり】といわれたのは、この事仏の境涯を告白しておられるのであります。元来、仏(ぶつ)とは梵語の仏陀(Buddha)を音訳したもので、覚者と意訳されます。覚者とは、理仏を悟り事仏に成りえた人ということです。この覚者となるのが、禅の修行の目的です。

 

 さきほど「お釈迦様のような覚者や、孔子様のような聖人ならそうかも知れないが、われわれ如き凡夫がオイソレとそう簡単に満足はいけない」と言われる方があるかも知れないが、そこに修養の必要な理由があるといったのは、このことを申したので、その凡夫がオイソレと満足がいくのが禅の修行なのです

 (8/13)

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禅の修行の具体的な話は、はじめからしないつもりですから触れないでおきますが、一切時一切処において、常に自分が自分の主人公になっておりさえすれば、順逆縦横の活社会において往くとして可ならざるはなしの筈であります。未来世に理想郷を求めずとも、このまま【歌うも舞うも法の声】となります。だから、臨済和尚も【随処に主となれば立処皆真なり】と言っておられます。 

 

昔、中国に瑞巖の師彦(しげん)禅師という方がありました。この方は毎日毎日、思い出したように自分のことを自分で「主人公よ」と呼んでおいて、自分で{ハーイ}と返事をしておる。そして又「目をさましておれよ」といっておいて、又「承知!」と返事し、「他にたぶらかされるなよ環境なぞの奴隷になりなさんなよ」と戒め、又みずから「承知承知」と返事をしておられたということです。 

 

この独り言を聞くと、先生ちょっと変なのじゃないかしら、と思う方もあるかもしれませんが、どうしてどうして、そんなつまらぬことではありません。

 

これは自己本来具有底の理仏を呼びおこし念々工夫を怠らずに事仏になる心構えを唱え、自らの戒めとすると同時に、他に向かって警告しておられたのであります。

 

多くの者が自己本来の本心本性(仏性)を見失って、折角の天上天下唯我独尊底の主人公が、つまらぬことに引きずりひん廻されて、損したの得したの、面目が立ったの立たぬと、泣き面をしておるのを「しっかりしろやい」と、警策を与えている有難いお言葉です。自己に合掌するとは、環境に支配されずに、自己が随処に主人公となって、日々是好日の楽しい日送りをすることです。 瑞巖の師彦和尚は、つまりは自己に合掌せよとすすめておられたわけです。 

 

 主人公となるという言葉から、封建的な独りよがりや他を軽蔑した自惚れを連想し、そう誤解する方もあるかも知れませんが、これは決してそんな意味ではありません。己を空しうしてという宗教的な要素を度外視しては、始末におえないエゴイストが出来上がってしまいます。虚妄の小個我を殺し尽くした上で眞実の超個我に即した我に合掌するのでなければなりません。 

 

と、いうわけは具体的実在的な小個我を離れて、別に抽象的観念的な超個我というものがあるわけではありませんから、超個我に即した我れという言葉を使ったのです。臨済禅師はこの意味の我を「無衣の真人」といっていますが、自己に合掌して真に楽しくあるとは、この無衣の真人に合掌することであります。 

 

 しかし、それだけではまだ真の楽しさは望めないのです。なんとなれば、人間は社会を構成して生活を営んでおります。自分だけが善良であり、純真であり、満ちたりておるからといって、それが楽しいわけのものではありません。超個我に即した我れは、又同時に全体我の一部であります。社会という有機体を構成しておる単位でもあります。社会全体が調和がとれていないで、自己一人が楽しくある筈がありません。 

 

特に今日のように、地球がせまくなっておる時代において、山深くかくれようが竹林に逃げこもうが、世界の平和がなくては、個人の幸福なぞというものは考えられません。そこで正しく・楽しくと同時に仲よくということについてお話を進めることに致しましょう。 

 

〈次は「仲よく」の章につづきます〉(8/14)

 

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