合掌の精神

  さて、合掌の精神をお話しする準備がととのったわけですが、もう一度繰り返して申しますならば、合掌の姿態から受ける感じには、なごやかさと満ちたりた気持ちと、真剣味とがおのずから備わっており、そしてこの三者にはおのずから宗教的なものがることを最初に指摘しました。そしてその宗教的なものとは、せんじ詰めると、己を空しうして絶対者に帰入するという気持ちであることを述べ、他力門と自力門とに例をとって説明を加えた次第であります。 

 

 そして事のついでに、これからお話ししようとする合掌の精神の根底をなす仏性という言葉の内容についても、触れるところがあったのであります。 

 

 さてこれから、われわれが平素から主張しておる合掌の精神なるものを分析して、お話をすすめて行きたいのでありますが、分析と申しましても、それは我々がモットーとしております「正しく・楽しく・仲よく」ということに該当させてお話しするだけのことです。

 

 われわれのモットーと申しましても、これもわれわれの独創でもなければ、専用でもありません。申せば昔から言い古されたことでもあり又世界のどこの国でも言いはやされていることで、いわば陳腐なそして通俗的なことなのです。が、しかしその裏を返して言えば、それだけ永遠の命があり、それだけ普遍性がある標語だとも言えましょう。 

 

 私は、正しくあるとは、真理に合掌することであり、楽しくあるとは、自己に合掌することであり、仲よくするとは、お互いに合掌することであると存じます。このことは、今も申した通り陳腐で通俗的で、私がはじめ唱えだしたわけのものではありません。仏教はすでに三宝に帰依するという言葉で表現されているものなのであります。

 

 三宝の意味や、それとわれわれの標語との関係についてはその都度述べることに致しまして、とにかくこれから申すことは、あえて我々の標語の説明をするのが目的でなく、あくまで不変不易の合掌の精神を論ずるのが目的であります。が、これを分析してみると上の三つになり、それがたまたま、われわれの標語としておる正しく・楽しく・仲よくという言葉で表現できる、というに過ぎないのであります。 

 

では以下、正しく・楽しく・仲よくと三段に分けて合掌の精神をお話しすることに致しましょう。

                 (次の正しくの章につづきます)8/8

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             正しく 

 

正しくとは、真理に合掌することであると、只今申しました。ところで、真理とは、人間が創造したものではありません。これを何らかの方法で表現するのは人間でしょうが、真理そのものは、人間が存在するとしないとにかかわらず、厳存しているものです。

いわゆる天地に先だって生じているものであります。だから、先に申しました通り、お釈迦様が大徹大悟召されたという仏法も、お釈迦様が発明創造したものでなく、それ以前から厳存していたところの真理そのものであります。

  

この真理そのものを、大道と名づけようが天命と呼ぼうが、エホバと讃えようが天之御中主命(あめのみなかぬしのみこと)と崇めようが、阿弥陀仏と唱えようが仏性と言おうが、それは人々の勝手ですが、真理そのものは絶対者でありますから、二もなく亦三もありません。 

 

いや、それをば大道・天命・エホバ・天之御中主命とは呼ばないといわれるなら、それも人々の勝手で、私は道経や儒教やキリスト教や神道を研究したわけではありませんから、「オヤ、左様でしたか!」と言って引き下がるより仕方ありません。が、その代わり、それらの教えのいうところのそれは、真理そのものを指しているのではないということは言えましょう。

 

なぜなら、真理そのものをそう名づけても差し支えないと申すに、それではいけないといわれるのですから・・・。 

 

 仏教では、真理そのものを阿弥陀仏と唱え、仏性と名づけておることは、前にも申した通りでありますが、又教相の上では達磨(dharma)と申し、法と訳しております。 

 

 ですから、私のいうところの真理に合掌するとは、仏教で前々から言っておる三宝に帰依するなかの南無帰依法に該当するわけです。ですから、これがほんとうに正しいことであると申すのです。なんとならば、法に帰依し真理に合掌するということは、どういう意味であるかと申しますと、法即ち真理を徹見し把握し、且つその通りに実行する、つまり理と事と一致することですから、これより正しいことはありますまい。 

 

 世の中には、正しい言われることは多々あります。それは厳正な意味で果たして正しいことであるかどうかが、甚だ疑わしいと思います。なぜならば、それはそのまま真理通りと言いかねる場合があるからです。たとえば遵法精神とか合理性とかは、一般に正しいことであると言われていますが、私はこれらは正しいことというより、善いことと言った方が適当ではないかと思います。 

 

 善い悪いは利害と同じように人間の決めたことで、都合によってはどうともなりうるものです。イナゴは稲の害虫です。稲を喰って悪い虫だとは言えますが、正しくない虫だとは言えますまい。カイコは桑の害虫ですが、人間にとっては益虫なるのです。遵法の法も合理の理も、人間が作り出し考え出したものですから、時と場合によっては正しいと言いきれないことがあります。この意味における法は、多数決によって改変することもできるし、この意味における理は、学者によっては理でないとされることもありえます。 

 

 ところで、ここに達磨と称せられる法は、不変不易であり時代によって或は国柄によって左右せられることのない、真理そのものを差しています。たとえば水の低きに流れるが如き、春になって桜の花が咲きだすが如き、これらは人間の存在に関係なく、したがって善いの悪いのじゃなく、人間がどうしようもない自然の現象です。自然とは自ら然りということで、これがほんとうに正いいことです。人間の生活もまた、このように自然であるのを、仏教では法爾自然(ほうにじねん)といって、本当に正しいことであるとしています。 

 

 法爾自然とは、ありのままで造作を加えないことでありますが、下手をすると、この言葉は誤解されやすいので、すこし釈明を試みておきたいと存じます。ここでいうありのままとは、申すまでもなく、ただ生まれたままで飲んで喰って垂れて産んで死んでゆく、それだけのことではありません。それも本能に従っての自然ですから、節度をはずさない限りは正しいことではありましょうが、特にここで取りあげて、正いいこととして論じようとしているそれは、人間としての性に従っての自然を意味しております。 

 

 こう申しますと、「でも、臨済和尚は、屙屎送尿着衣喫飯(あしそうにょうちゃくいきっぱん)困し来れば即ち臥す。それでよいのじゃ、それが大道であると言っておるのではないか?」というご疑念がおこるかもしれません。これは一応ごもっともなことですが、臨済和尚の場合は、千鍛百錬仕上げた境涯からそう言われたので、つまり通身これ法 全身これ道の境涯から運び出すのですから、何を思うても何をやっても、それが大道に合するのです。思うままに言行云為(げんこううんい)して、それが法に即しているのです。 

 

 これがほんとうに正しいことで、私が真理に合掌すると申すのは、実はこれを言いたいのです。だがこれは容易なことではありません。口では無造作に屙屎送尿云々と、つまり喰うたり垂れたり寝たりといっていますが、千鍛百錬した上でのことという条件を忘れてはいけません。 

 

 儒教でも、聖人の境涯として孔子様は「われ七十にして心の欲するところに従って矩(のり)を踰(こ)えず」と言っておられます。聖人さえ七十の境涯にして初めて到りえたとせられるものです。しかも、矩をこえずとことわっておられる通り、でたらめに勝手気ままに振舞うことではないのであります。 

 

 お釈迦様は、この境涯を「われ法王となって法において自在なり」と説いておられます。

 

とにかく、これらは祖師なり聖人なり教主なりのいわれたことで、人間がほんとうに正しくあるということは、容易なことではないということを、くれぐれも申し添えておきます。 

 

 容易なことでないといって、しかし投げやりにしておいたのでは、人間として正しくあることはできず、したがって、ほんとうの人生を味わうことはできません。人間と生まれて、後にも先にもたった一度しかない、この人生を味わうことすらできないとしたら、これほど自己に対して不親切な話はありますまい。 

 

 どんなに困難であろうともどうぞして真理に合掌したいものです。どうすれば真理に合掌することができるかと申すに、まず真理を把握せねばなりません。これは自明の理です。 

 

把握したら、こんどは真理通りに実行せねばなりません。この把握と実行とをあわせて、これを私は真理に合掌すると申しております。禅では、これを道眼を磨き道力を養って、理事一致・覚行円満の境涯に到ると申しております。

 

 

禅の修行のお話は先に時宗の例をあげて一寸触れましたが、今回はあれ以上触れないでおきます。即ち把握し実行する方法論は、今は論じませんが、何れにしても己を空しうして、真に己を活かすには余程熱誠をもって真剣に三昧にならねばならぬことだけをお断りしておきます。手段方法は暫くおくとしても、なぜそれほどまでにして、真理に合掌することをすすめるのでありましょうか?その結果はどうするのでありましょうか?                               (8/9 

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  それは、すでに前にもふれたことではありますが、真理に合掌することが法爾自然であり、大道に即した境涯であるからであります。即ち、人間が人間の性に率うことが何より自然であり、人間の道であり、しかも人間が人間の道を行うことが、本当に正しいことであり、それが又ほんとうに人生を味わう所以であるからであります。 

 

『中庸』にも【天命これを性と謂い、性に率うこれを道と謂い、道を修むるこれを教と謂う】とあります。すでに度々申した通り正しくとは真理に合掌することであるというのが、私共の教義であります。この教義にしたがって、自分は正しいのであるという自覚ほど、何物にも換えがたい矜持と満足と生き甲斐を感じさせるものはありますまい。 

 

 何しろ一民族の感情や一時代の思想や限られた社会の慣習やそれらのものに左右されることのない正しさ、万古不易の大道に根ざした新年なのですから、即ぞ人間に生まれたものであると、ほんとうに人生を味わうことができます。 

 

 地位も名誉も学問も財産も超越して、独脱無衣で天上天下われ今ここに如是なりと起ちあがった姿こそ、真にけだかく尊い仏の姿であります。或は神の姿であると申してもよいでしょう。これがほんとうの合掌の姿であります。そこには小さな我の姿なぞはありません。何もないのではない、そのままが南無帰依仏の姿です。《唱うれば仏も我もなかりけり南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏》と申された彼の一遍上人のお歌は、ここの境涯を歌っておるものと存じます。 

 

 ここでは真に合掌するお話をしておるのですから、即ち法に合掌帰依するお話をしているのですから、南無帰依仏より南無帰依法と言った方が妥当かもしれませんが、元来法も仏も一如で、法を離れて仏もなく、仏を離れて法もありません。南無阿弥陀仏と称えようが、南無妙法蓮華経と唱えようが、同じことです。そう申しても今日の宗門の方々はにわかに賛成なされまいと存じますが、親鸞上人や日蓮上人なら、必ずや私のこの言葉を肯定して下さるにちがいありません。 

 

南無帰依仏、南無帰依法、これが真理に合掌することで、これがほんとうに正しいことです。キリスト様だって「それこそ神の思し召しに叶うことである」とおっしゃるに違いありません。真理に宗門や教派はありません。もっとも、何もかも一緒くたんだと申すのではありません。それぞれの宗旨宗派には、それぞれの特徴があります。そこにその宗教の生命があるのですからあれこれを採った灰色的なものは、かえって他を引導する力がありませんが、その根本精神、真理に合掌した正しい姿のうえには、宗門や教派の別はないと申しておるのです。

 

己を空しうして、真に己を生かした合掌の姿というものは、天上天下唯我独尊であって、しかも決して排他的なものではありません。排他的ではありませんが、時には又天魔鬼神も折伏(せつぷく)するという断乎たるところもあります。婦人のために説かれた『勝鬘経』の中にも【まさに摂取(しょうじゅ)すべきものは摂取し、まさに折伏す】という言葉さえ見えております。破邪顕正の剣を抜きはなっては、「千万人といえども我往かん」というような強いバックボーンもなければ、真に正しいとは申されません。 

 

合掌の姿のなかには、狂瀾怒濤の魔海も突き進むという船の舳先の鋭さもなければなりません。自己に納得がいけなくとも、長い物には巻かれろ式に、何事にも仰せごもっともと盲従するだけでは、ほんとうのなごやかさだとは申せません。真に仲よくするとはどんなことか、後でお話ししますが、断乎として隆魔の剣を振りかざした合掌の姿、それはもとより妥協や盲従ではありませんが、又排他的な独善では絶対にありません。 

 

破邪顕正のの智慧のなかに、大慈大悲の徳相が含まれていなければ、ほんとうに正しいとは言われないのであります。 

 

正しくあるとは、まず以上のような意味合いをもっております。この真理の合掌するという根本原理に徹底しませんと後にでてくる楽しくも仲よくも、理解しにくいのであります。便宜上正しく・楽しく・仲よくと分けておりますが、元来この三者は別々に独立したものではなく、互いに密接な関連をもったものです。 

 

だから、先程も南無帰依仏も南無帰依法もおなじことである、というような言葉が自然に出てくるのでありますが、とにかく、この真理に合掌するというのは、私どものいう正しくあるということが本当にご理解いただければ、後の楽しく・仲よくは、おのずからご理解願えると思います。で、すこしお話が難しくなりすぎた嫌いがありましたが、お許しを願って、次に楽しくについてお話を進めましょう。

 

                 (次は、「楽しく」の章につづきます)

 

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