仏性

 仏教の根本原理は、申すまでもなく、お釈迦様のお悟りの上に、その基盤を置いています。お釈迦様が例の臘月八日、暁の明星を一見すると同時に大徹大悟めされて、思わず口をついて「あゝ奇為るかな!一切の衆生、如来の知恵徳相を具有す!」と大獅子吼されたということは、余りにも有名な話であります。 

 

これがお釈迦様のお悟りの証拠であり、これが仏教の根本原理となっているわけです。が、実は仏教の原理というばなりでなく、これが真理そのものなのであります。即ちお釈迦様がこんな原理を発明したのでなく、それ以前から現存しているところの真理そのものを発見されたのであります。 

 

今、今言葉の意味を少し解釈してみますと衆生とは衆縁が和合して生じたものという意味で、一切の物はみなことごとく衆生です。なんとなれば、如何なる物でもいろいろの縁が集まって生じた結果でないものは、一つもありません。だから、一切衆生といえば、それはあらゆる生物はもとより、無生物にいたるまでをひっくるめているのであります。 

 

その一切の物は例外なしに、如来の知恵徳相を具有しているという意味です。

 

では、如来の知恵徳相とは何か?これは、先に申した無量寿無量光にほかなりません。即ち一切衆生は、そのまま阿弥陀如来の権化であるということです。元来、如来という言葉そのものは、如より来る、即ち真如の現れでるということです。これがお釈迦様のお悟りです。  

 

これを今日の言葉で表現するならば、一切の物は絶対者の現れである、ということになりましょう。これは真理です。なんとなれば、唯一絶対の真理が、総てのものの第一原因であるからであります。そして、ここにいうところの如来の知恵徳相なるものを、禅門では仏性と申しておるのです。 

 

もっとも仏性とは禅の専門用語ではなく、すでにお経文にも【菩薩は目に仏性を見る】というような語をはじめ仏性という語は処処に散見しておるのですが、先ほど私が本来具有底の仏性と申したのは、ここに根拠をもっているのであります。

 

さらにもう少し解明を試みるならば、現にお釈迦様も例の大徹大悟なされた時の大獅子吼についで、又次の言葉を吐いておられます。 

 

「一仏成道して法界を観見すれば、山川草木皆な悉く成仏す!」と。即ち「今 悟りの眼を開いて大自然を見渡せば、生物も無生物も例外なく、皆なそのまま仏性を具えておるわい!」との謂いです・ですから、これは先の言葉の内容のくりかえしたのに過ぎないのです。この一切の衆生が仏性を具えておる、仏性のあらわれである、仏性そのものであるという、これがお釈迦様のお悟りの内容で、禅ではこの内容をお釈迦様と等しく寸分たがわず悟るのです。 

 

そしてわれわれ人間禅では、この内容を合掌の根本精神としておるのであります。このように、合掌の精神の根源はすこぶる尊厳なものであります。なんとなれば、それは如来の知恵徳相であり、仏性であり、絶対者であるところの真理を体得するところだからであります。ですから、お釈迦様も別のところで、この内容を「天上天下唯我独尊=てんじょうてんげ ゆいがどくそん」と表現しておられます。 

 

そうでしょう、絶対者であること、それより尊厳なものはありますまい。絶対者でこそ至大至高至尊なのですから。先に私は自力門では大死一番絶後に再蘇して、本来具有底の仏性に随喜合掌するのだというような意味のことを申しました。即ち己を空しうして真に己を活かすのですが、これが即ち禅門でいうところの「直指人心見性成仏=じきしにんしんけんしょうじょうぶつ」であります。 

 

 正しい禅の修行によって、見性成仏がいければ、お釈迦様と等しく「天上天下唯我独尊」なる所以が体得できるのです。 

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だが、ここは大いに注意しなければならない一事があります。それは、唯我独尊の我でありますが、これを「お山の大将おれ一人」式に他の多くの者から区別された我と解するとすこぶる鼻持ちならぬ増上慢が誇大妄想になってしまうということです。 

 

お釈迦様が言われた唯我独尊とは、もとよりそんなけち臭い排他的な「我こそは」というようなもんでなく、個々がそれぞれに唯我独尊であって、ある選ばれた人だけ独り尊い何というものではありません。つまりちっぽけな我を殺し尽くし、即ち己を空しうしてこそ、はじめて天上天下唯我独尊たりうるのであります。 

 

今日の言葉を借りていうならば、小我を殺して超個我をいかすことで、禅のいわゆる大死一番絶後に再蘇とは、これをいったものであります。ですから、これは何もお釈迦様に限ったことではなく、誰もがこの内容を把握し、この悟りを開けば、みなことごとくが唯我独尊なので、見性成仏とはこうしたものであります。 

 

大分話がむずかしくなって恐縮ですが、一つ例をあげてご理解の便に供しましょう。 

 

北条時宗は、ご承知の通り、蒙古襲来いわゆる元寇の時の鎌倉幕府の執権です。史家の筆によれば、胆斗の如し(きもが一斗ますのように大きいこと、転じて肝魂の大きい譬え)と言われていますが、実はもともとはそうではなかったのです。生まれつきはその反対で、すこぶる小心怯懦(きょうだ)の人であったのであります。 

 

 ご承知の通り、アジアからヨーロッパにまたがる大帝国をたてた元の世祖フビライが、度々使節をよこして我が国に朝貢(ちょうこう)をもとめ、武力侵略を計画していたのであります。この国家の累卵の危うきにあたっては、国防の重責を負うものとして、小心怯懦(きょうだ)でなくてもなかなか決断のつきかねるのはもっとものことです。 

 

 時宗もその責任の重且つ大なることを思えば、進んで討つべきか退いて和すべきか、甚だ迷って夜の目も眠れるありさまでありました。それでついに父時頼が中国から蘭渓道隆禅師を迎えて、親しく参禅弁道した故智にならって、使いをつかわし中国から無学祖元禅師を聘(へい)して建長寺に居らしめ、自ら諸将とともに参禅して道を問うたのであります。

 

 

 

 その時の筆談が残って居るので今その要点をかいつまんで掲げてみます。

 

時宗「私の唯今もっとも憂いとしておりますところのものは、怯懦の心であります。どうしたらこの億病心を除くことができましょうか?御教示願いとう御座います。」

 

禅師「臆病の心のために苦しめられるなら、その臆病心の出てくる出口を負債で しまったらよろしかろう」

 

時宗「そうおうせられれば、まことにそれに違いありませんが、一体その臆病心はどこから出てくるので御座いましょうや?」

 

禅師「それは時宗より来る。時宗というちっぽけな我が、とつおいつ考えてておるからじゃ。来日、時宗を殺しきたれ! 看ん!」 

 

 時宗も成る程と思って、真剣になって座禅を組み、いわゆる公案の工夫三昧になって、ついに八識田中に一刀をくだし、大死一番して小個我を殺し尽くし、天上天下唯我独尊と超個我が再蘇したわけであります。即ち見性成仏がいけたのです。 

 

 そして、祖元禅師から「真の獅子児よく獅子吼す」とまで激賞されたほどの絶倫の道力をえられ、そこから国難打開の断固たる新劇命令を下したのであります。 

 

 その結果は、史家をして【相模太郎胆斗の如し】と称せしめておるのでありますが、実はそれまでには、こうした苦心があったのであります。これはまことに己をむなしうして己を活かした好い例であると思います。 

 

 以上もちまして、合掌の精神をお話しするに当たっての準備が終わったわけであります。  (次は「合掌の精神」の章に続きます8/3

 

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