宗教的なもの 

 

 宗教と申しても、未開時代の宗教もあるし、文明時代のものもあります。正しい宗教もあるし、邪なものもありましょう。 が、今ここで、宗教の深浅邪正を論ずる必要はありません。ただ己を空しうする気持ちが、宗教の基盤をなすものであるということを立証するために、そして後に述べる合掌の精神を理論づけるために、仏教に於ける他力門と自力門とのお話を少しさせて頂きたいと思うものであります。 

 

それは、小さな自我を主張する排他的な思想からでは、どうしても合掌の精神を理解し難いからであり、しかも仏教ではその小さな自我を否定するものをもって、教義としているからであります。謂いかえれば、己を空しうして絶対者(それは仏と名づくべき神格者であろうとも、法と名づくべき真理であろうとも)に帰入するのでなければ、仏教は成り立たず又そこまでいかなければ、合掌の精神には徹底できないからであります。 

 

 仏教のなかにも各宗各派がありまして、それぞれの持ち味を発揮しておりますが、今私は他力門の代表として念仏宗をえらび、自力門の代表として禅宗を選んで、簡単に解説を試みることに致します。 

 

 まず念仏宗の教義は、もうすまでもなく南無阿弥陀仏と唱えて、お救いをいただくことであります。南無(namas)とは帰命ということで、つまり一心不乱に阿弥陀仏に帰依敬順することであり、私のいわゆる帰入するということであります。

 

そして、阿弥陀とは詳しくはアミタアーバ、アミタアユース(Amitabha.Amitayus)の謂で、余りながすぎるから単に阿弥陀と略しておるのです。で、アミタアーバ、アミタアユースとは、申すまでもなく梵語で、これを意訳すれば無量寿・無量光ということになります。 

 

古来インドでは、華とか右とか寿とかいう時は慈悲をあらわし、燈とか左とか光とかいう時は智慧を意味しております。だから仏壇でも本尊から見て左に燈明を右に供華をそなえますのは、おのずから知恵と慈悲とをあらわしておるのです。仏に対する時には【偏袒(へんだん)右肩(うけん)合掌向仏】で、右の肩をはだぬいで、左の智の方はかくすのです。 

 

白隠和尚が左手を出して「隻手に何の音声かある?」と問うのも、やはり根本の大智慧ということを意味しております。 

 

話が少し傍道にそれましたが、ここに無量寿無量光仏といえば、絶対の慈悲と絶対の知恵とを神格化した仏という意味になります。ですから、南無阿弥陀仏と唱えることは、この非智円満の絶対者に帰入するの謂いで、これは己を空しうしなければできないことで、己を空しうして初めて、他力門の信仰生活にはいることができるのです。 

                                  

  藤沢の遊行事(ゆぎょうじ)の開山はご承知の通り、時宗という念仏宗の一派の宗祖であられる一遍上人です。この一遍上人がが、初めはどうしても念仏三昧になれない。

 

三昧(sama Dhi)のことは、『数息観のすすめ』の中で、詳しく述べてありますから、それを見ていただくことにして、ただ口先ばかり、オウムのように南無阿弥陀仏と唱えるだけでは、絶対者に帰入する意味にはなりません。

 

一遍上人は、どうぞして念仏三昧の力を得たいものであると、いろいろ苦心惨憺せられたが、なかなか思うようにいかぬ。 

 

 そこで、そのころ有名な由良の法燈(はっとう)国師を訪ねて「どうぞして念仏三昧を得られる極意をお示し願いたい」申し出ております。法燈国師といえば、禅宗の方のお師家さんですが、宗旨だの宗派だのというのにこだわらないで、わざわざ辞を低くして訪ねて行くところは、さすがに古人は偉いものだと思います。真剣に道を求める上においては、すでに己を空しうしてかかっておられる。 

 

 この切なる願を聞いて、法燈国師は「念仏三昧は暫くおいて、まず座禅を組んで数息観を試み、数息三昧の力を得られよ、したらば念仏三昧も得られるほどに」と言われた。 

 

一遍上人は素直にこれを受け入れて、ひたすら数息観を試みられた。そして三年の努力の結果、漸く今日私どもがいうところの数息観の中期の力をえられたのです(数息観の仕方参照)。ここにいたって、本当の念仏を唱えることができ、これなる哉とそのよろこびを一首の歌に作って、法燈国師に呈しております。 

 

 その歌は、《唱うれば仏も我もなかりけり、南無阿弥陀仏の声のみぞして》というのでありました。これをみて国師が「ウム。これはなかなか宜しい。宜しいが、まだ十分とは申せない。折角なら、もっと徹底されたらどうじゃ?」と言われ、又ぞろ苦心惨憺すること更に三年、都合六年の歳月を費やして、今度はほんとうの三昧の力を得られ、これならばという手堅い安心の境地を達せられた。 

 

 そして今度も、その境地を一首の歌にして、国師に呈しております、それは《唱うれば仏も我もなかりけり、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏》と。これを見て法燈国師「ウム。これなら十二分にいけた。これでこそ念仏三昧の極意を得られたというものじゃ」と、大いにうけがわれたということです。これから彼の時宗という一派が建てられたのですが、どこに念仏三昧の極意が秘められておるのでしょうか?

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前に申した二首の歌を比較してみまするに、その違いはわずかに下の七字過ぎません。何故に前の歌は十分といえないのが後の歌は十二分なのでしょうか?

 

あえて説明を加える必要もないと存じますが、蛇足を添えるならば、前の歌では「声のみぞして」と、どこかに註釈を加えている者がいます。「声ばかりで我などいない」というつもりですが、そういうことをいうつもりの我が、まだどこかに生きています。それではほんとうに己を空しうしたとは言いきれません。つまりよろしいには宜しいが、まだ十分ではない所以です。 

 

後の歌になると、「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と、救うも救われるも、仏も我もありません。本当に己を空しうして、絶対者に成りきった時が、本当に救われた時で、これが念仏宗の極意であり、この世ながらにして救われた満ちたりた境地であります。つまり、己を空しうして真に己を活かすのが、絶対他力の信仰であり、そして又それが合掌の精神でもあるのであります。

 

 

この己を空しうして真に己を活かすという仏教の原理は、自力門の禅宗でも、すこしも変わりはありません。ただ己を空しうする仕方と、合掌する対象がとが違うだけです。

 

 他力門では、一途に自分をやるせないいたずら者と嫌悪して、ひたすらに大慈大非の絶対者に帰依合掌するのですが、自力門では座禅工夫にの上で、無明の根源である自己の八識田中に向かって一刀をくだし、絶後に再蘇することによって、本来円満具有底の仏性に随喜合掌するのであります。 

 

ですから、これまた己を空しうして、真に己を活かす所以であるということができます。ただ、いきなり本来具有底の仏性なぞと申しても、にわかに納得がいけないかもしれません。これは禅家の方の悟りに属することでありますが、私の言わんとする合掌の精神の裏づけともなる根本原理ですから、煩をいとわず、すこしむづかしくなって恐れ入りますが暫く説明させていただきます。

              

つづきます、次は仏性について8/1)

 

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