合掌の姿態

 

さて、合掌のどこから、そんな気持ちが湧いてくるのでありましょうか? その精神分析は後で申すことにしまして、その姿態そのものが大きな原因となっていると私は思います。

 

 まさか。どてらを着て葬式に参列する莫迦もないでしょうし、いくら何でも開襟シャツで婚礼の席に臨む阿呆もいないでしょう。合掌するのに服装はどうでもよいようなものですが、さて、どてらや開襟シャツで合掌しても、どうにも恰好がつかないようです。つまり、どてらや開襟シャツは暑い寒いの気候のせいばかりでなく、くつろぎとか軽便とかいうものを多分にもっています。で、合掌はくつろぎとか軽便とかからは、縁の遠いものであることがわかります。 

 

そこが、私が先に何か宗教的なものを感じると申した所以ですが、宗教的なものとなると、どうしても手の置きどころは胸の前で合わせるのが、一番妥当のように考えられます。 

 

 元来、手の置きどころというものは、知らず知らずの間にその人の気持ちをあらわすもので、腕組みをしてそっくりかえっているのは、ものを批判しておる態度であり、頭を抱えこごんでおるのは困った時の様子であり、胸をいだいてかがまっておるのは、何か深く考え込んでいる時であります。両掌を合わせて肩のところへもってゆき、首をかしげて笑って見せれば、媚(こび)を呈しているのだと受けとられます。その他、顎(あご)をなでて納まっておれば、他人を小馬鹿にしているように見え、もみ手をして腰をかがめれば、お追従におもわれるでしょう。懐手は無精(ぶしょう)の標本であり、ポケットに手を突っこんでいるのは、傲慢(ごうまん)のシンボルです。 

 

こんな風で、要するに手の置きどころは、その人のその時の気持ちをあらわすのに、重大な関係があることだけは事実のようです。そこで、両掌を胸の前で合わせた姿態、すなわち合掌は、先程申したような気持ちを、おのずからあらわしていると言うことができると思います。 

 

 先ほど申した気持ちとは、なごやかさ・満ち足りたもの・真剣味というような気持ちですが、そしてこれら三者は、お互いに密接な関連にあるものですが、これらの気持ちをさらに深く掘り下げていくと、己を空しうするという気持ちにまで統一されます。

  

 たとえば、先にあげた例にいたしましても、抵抗もしません、何もかもあげます、ただもうこれだけです。命ばかりはお助け下さいと、口には言わなかったとしても、ひたすら合掌した気持ちというものは、己の総てを投げ出したものといえましょう。又合掌したまま焼け死んでいた姿というものは、申すまでもなく、己を空しうして何事もお任せしきった姿であります。

  

 そして一切の虚飾をかなぐりすてて、一心に祈る姿こそ、全く己を空しうした尊い姿です。で、私はこのお話を始めた時に、合掌の気持ちというものは、せんじつめろと、何か宗教的なものにぶつかると申したのです。

  

 この己を空しうするという気持ちこそ、宗教的なものなのですが、なぜそうなったかということについて、すこしく検討を加えてみることにいたしましょう。          

 

          つづく 次は「宗教的なもの

 

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