合掌の精神

立田英山述

 

合掌の精神

 

合掌と申しますのは、申すまでもなく、両方の掌(て)を胸の前で合わせるなり組むなりした様子をいうのでありますが、それは形の上のことで、それにどんな内容がもられておるのか? 謂いかえれば合掌の精神とはどんなものであるか? というようなことについて、私が平素から考えておることをお話してみたいと思います。 

 

合掌の気持ち

 

 合掌をする気持ちは、時と処によって色々あるでしょうし、又人々によってそれぞれちがうでしょうが、そのよってもって起こる気持ちをだんだんに詮じつめていくと、何かこう宗教的なことにぶつかるようです。つまり、時の古今を問わず、国境や民族に制せられず、合掌の気持ちには、なごやかさ・満ち足りたもの・真剣味というようなものが感じられます。 

 

そんなものが、宗教的なものと言えるかどうかは暫くおいて、理屈道理を離れ、利害得失を超えたあるものを感じられると思いますが、如何でしょう? 私にはそう感じられるのですが、まず私の体験からお話ししてみましょう。 

 

私が、かって中央大学で教えたことのある人に、Hという新聞記者がいます。この人は終戦当時満州にいたのですが、職業柄これはあぶないということをいち早く感づいて、単身逃げて来たのです。が、現在の北朝鮮と韓国とを境とする38度線は、易々とは通過できなかったそうです。 

 

その人の述懐談ですが、「言葉は通じなくても、持っている物をそこへ投げ出して、これだ!これだ!と掌を合わせてみせれば、こっちの気持ちは通じるものですよ」と。この人は利口者ではあるが、ユーモアなぞのある人ではありません。しかも、この時まかり間違えれば生命も保証できない場合ですから、かなり真剣であったに違いありません。にもかかわらず、相手はニヤリと笑って余り追及をしなかったそうです。 

 

こんな風に合掌の様子には尾を振る犬は打たれぬというような理屈抜きで憎めないあるものがあるようです。これが宗教的なものであると申せませんが、そんななごやかさが私には感じられるのです。 

 

 

 これは又ずいぶん古い話ですが、あの大正十二年の関東大震災の時のことです。この当時、私は阿佐谷に住んでいましたが、幼年時代から少年時代を、東京の本所区二葉町(今の墨田区石原町2丁目)に過ごしていました関係上、本所には親戚や知人が大勢いました。早速見舞いに出かけたのですが、余燼の中の累々たる死骸は、ただもう酸鼻の極みで、その断末魔の形相の中から、親戚や知人の姿を探し求めることは、私にはようできませんでした。

 

ただ、以前に住んでいた家の前に来た時、一人の老人が端座して合掌して焼け死んでいるのに、思わず合掌してしまいました。よく見るとそれは見覚えのあるT老人です。Tさんは、私の家の前に住んでいた浄土真宗の厚い信者で、私の母の仲のよい道の友がきでありました。

 

誰も彼もが、二タ目とは見られないお気の毒な姿で焼けただれているのに、この老人ばかりは満ちたりた安らかな容貌をしておりました。勿論、煙に巻かれて息が絶えるまでには、随分苦しかったに相違ありませんが、同じく苦しんで死ぬにしても、宗教心のあるのとないのとでは、こうまで違うものかと、つくづくその合掌の姿が尊く思われた次第でありました。 

 

 

 もう一つ、これはいよいよ古いお話で恐れ入りますが、私に宗教心を芽生えさせてくれた感銘の一つでもありますから、聞いていただきたいのです。私がまだ14歳のころのことです。中学の初年級の頃から、よく武州高尾山へ昆虫採集に出かけたものですが、その当時の琵琶の滝は森々たる杉の木立に囲まれて、昼なお暗いというありさまでした。 

 

ある夏の朝早くのこと私は独りでその琵琶の滝へ降りていったのです。もう遠くから、轟々という飛瀑の音が清澄な朝の空気をとどろかせて覚えず襟をかき合わせるような気持になって、滝の前に立ったものです。すると、その真下する滝の中央に、緑の黒髪を長く流して、真っ白な肌を露わに打たせている女の人がいるではありませんか?何を祈っているのか知りませんが、その一心に合掌している姿は、ただもう神々しいものとして思わず頭が下がってしまいました。恐らくそれは一糸まとわぬ姿態そのものより、素裸体(すっぱだか)になって合掌する気持ちの真剣さが、私を強く打ったものにちがいありません。 

 

その証拠には、その後倉敷の大原美術館でルノアールの描いたヴィーナスを見ても、あの時のような感激はすこしも起こりません。私の心に求める神々しさ・真剣さは、美の女神のなかにもとうてい見出すことができず、従ってその前に頭を下げる気なぞにはなれないからであります。 

 

 以上は、別に宗教のお話をするつもりで自分の体験を申し上げたわけでなく、合掌の心持ちのうちには、何か宗教に通じるものがある。つまり、なごやかさ・満ちたりたもの・真剣味なぞというものは、別に理屈道理でもなく、また直接われわれの生活に利害のあるものでないが、人生を味わう上での重要な要素であり、それが合掌の精神でもある、ということを申し上げたかったのであります。

 

 つづく 次は、『合掌の姿態』

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