宮本 武蔵 (二)

慶長17年(1612年)武蔵29歳、舟島(巌流島)で巌流の佐々木小次郎と勝負して勝つ。武蔵に関して最も有名なくだりである。武蔵は父の門人が豊前小倉の藩主細川忠興に仕えている縁を頼り、当時剣名高い佐々木小次郎に試合を申し出た。忠興は2人を舟島にて勝負させることとした。

仕合当日の朝、武蔵は約束の時刻8時を過ぎても起きようとはしない。催促の使者が来てからようやく起き上る。それから飯を食い、食い終わると今度は木刀を削り始めた。再び催促の使者が来るにおよび絹の袷を着て小舟に乗り込む。10時を過ぎたころ岸に着くと、木刀を携え素足で波打ち際をゆっくり歩き始めた。小次郎は武蔵を見るや憤然と言う。「なぜ遅れた、臆したか!」武蔵が答えないと小次郎はいよいよ怒り鞘を海中に投じる。武蔵が微笑しながら言う「小次郎敗れたり、勝つものが何で鞘を捨てるのか」。2人は同時に打ち込んだかのように見えたが武蔵の木刀が一瞬早く小次郎の頭を打ち抜き勝負が決まった。武蔵ははるか検使に一礼し木刀を携え、元の舟に乗り下関へ帰って行った。
 
その後武蔵の史実的年譜は20年近く再び空白となる。その間大阪冬の陣や翌年の大阪夏の陣に参戦したとされているが明確な記録は無い。ただ尾張と出雲にはしばらく滞在していた。この両地方に二天一流が広まっていたことから推察される。

 


寛永11年(1634年)武蔵51歳の時、養子伊織と共に小倉に現れる。武蔵は終生妻帯することは無かったが、出羽国で行き合せた孤児の伊織を養子としていた。この伊織を小倉の小笠原家に士官させた。寛永14年(1637年)に伊織は武蔵と共に島原の乱に従軍。伊織は小笠原忠真の指揮監として出陣し、後に4千5百石を領する家老職にまでなる。
 
寛永17年(1640年)武蔵57歳の時には肥後の細川忠利に招かれて客分として熊本に赴く。忠利は武蔵と小次郎に仕合をさせた細川忠興の子であり、母は明智光秀の三女細川ガラシャ。
 
翌寛永18年忠利の求めに応じ「兵法三十五ヶ条」を書く。これは武蔵の兵法を筆に記した最初の書となる。忠利は沢庵禅師と親交があり、柳生宗矩から柳生新陰流の免許皆伝を許され「兵法家伝書」を授けられている。これらの事実から武蔵に「兵法家伝書」を見せたうえで武蔵独自の兵法観を示すよう求めたものと思われる。
 
寛永19年細川家菩提寺泰勝寺の春山玄貞和尚から「二天道楽」の法号を与えられる。それにちなみ自身の流派を「二天一流」と名付ける。この年武蔵が頼りにしていた細川忠利が急逝する。武蔵は落胆に暮れ世を捨てて詩歌、茶、書、彫刻などに没頭した。
 
寛永20年(1643年)武蔵60歳。10月霊巌洞にこもり、「五輪書」を書きはじめる。
 
正保2年(1645年)武蔵の病がこのころ次第に重くなり、死期を知り門人の寺尾勝信に「五輪書」を、寺尾信行に「兵法三十五条」を贈った。最後に自戒の書として「独行道」を書き、これを辞世の書とした。5月19日居宅にて病没。享年62歳。


最も近い座禅会

人間禅福岡支部座禅会

   
   

  鹿児島禅会     (薩摩富士)